2013.10.11 Fri

2013年のノーベル文学賞はカナダの女性作家アリス・マンロー氏(82)に授与すると発表されました。
アカデミーは「現代の短編小説の名手」と評価し、同賞の女性への授与はドイツの作家ヘルタ・ミュラー氏以来4年ぶり、13人目となるようです。
マンロー氏はカナダ南部オンタリオ州ウィンガム出身で、10代で創作を始め、1951年に結婚後、大学を中退。書店経営の傍ら作品を発表し、68年に初の本格的な短編集を出版しました。
子育てや離婚、再婚を経て、自分の故郷をモデルに田舎町に暮らす人々の生活と心の機微を描き、「カナダのチェーホフ」とも呼ばれ、2009年にはブッカー国際賞を受賞しました。
日本では「イラクサ」「林檎の木の下で」「小説のように」(いずれも新潮社)が翻訳され、国内の文学ファンに親しまれてきたようです。
僕も、現在世界で最高レベルの女性小説家と思っているアリス・マンロー。
ノーベル賞授賞は当然だと思いますし、大好きな作家が取ったことにとても嬉しく思っています。
その最新作の「小説のように」。
どこにでもありそうな平凡な日常がこの人の筆にかかると、濃密な時間のなかで繰り広げられる特別なストーリーに変わります。
表現の豊かさは現代の作家の中でも特に飛び抜けていて、文章の上手さも特筆ものです。
村上春樹のように比喩を多用し、ひとつのことを何度も多面的に言い換えながら表現し、内面をあぶり出すというよりも、とにかく繊細な表現で緻密にそして徹底的に書き込むことで、リアルな情景を描き出すタイプの小説です。
そのためにストーリの中の時間がとても濃く、ゆっくりと進んでいくのですが、必ずどこかで予想外の展開が隠れていたことを後で知らされ、そして驚かされ、常に読者を飽きさせることはありません。
濃厚な物語の中に一度引き込まれると、現実を忘れてしまうようなリアリティーを持っていて、ストーリーに振り回されてしまうことに違和感を覚えるほどでした。
短編集ですがどの話も印象深く、重厚で、長編のような読書感があります。
この小説が、現時点で世界最高レベルの小説であることは間違いないと僕は思いますが、アリス・マンローの受賞がここまで遅れたのは、アカデミー財団が短編にあまり価値を見出してなかったのが理由でしょう。
スポンサーサイト
2013.09.24 Tue

アイルランドの若手女性作家「クレア・キーガン」の『青い野を歩く』。
大好きな詩人の蜂飼耳さんが、以前、新聞の書評の中でとても褒めていたので買ってみたのですが、時間がなかなかとれずに読んでいなかった本です。
最近は昔のように、一冊の本を一気に読みきる機会が殆どなかったのですが、この本は久しぶりに時間が取れたので小説の世界を深く堪能できました。
現代から少し過去のアイルランドとアメリカの、都会とはかけ離れた田舎の話がいくつか入った短編集です。
どの主人公にも共通するのは、自我をもてあまし、他者との交流や社会に上手く馴染めず、かといって現代の日本人のように社会や他人を否定するわけではなく、自分自身を大切にしながら、何とか周りの人や環境と折り合いをつけていくというような生き方をしています。
少し僕自身の生き方と似ているところがあって、不思議な共感を持てた小説です。
自然の描写がとても細やかで、そしてリアリティがあり、まさに自分がそこに存在するような気がします。
現代人の多くが、他者とのかかわりの中で自分を見出すことが多い今の日本では、ほとんど忘れかけた自然とのかかわり。
そして、その自然との接点にこそ、自分の本質が見つけられる。この本を読んでとてもそのことを強く感じました。
現代人が追求した生活の豊かさや安全、快適さや効率。
それを求めすぎたゆえに、人間は他のエネルギーの存在に依存することによって地球上で生かされているという事実や、様々な自然環境によって生活が成り立っていることを忘れてしまったのかもしれません。
いくら経済発展や税金を使って社会整備をしたり、立派なビルを建てたとしても、大きな地震や食料難や、エネルギーの危機に対する不安は一向に無くなりません。
むしろ、そうやって目の前から覆い隠すことによって、原発のように潜在的な恐怖は逆に強くなるようです。
それは人間が自然との接点を見出すことを止めてしまった為に、自分が今、どうやって生きてきたのか、どうやって生かされているのか、そして何をするために生まれてきたのかという本当の理由がわからなくなってしまったからでしょう。
この本を読むと、現代人の生き方が、国家や社会やお金、そしてなによりも自分の左脳に依存しすぎていることを強く感じます。
左脳の進化による豊かさ、快適、安全性などにどっぷりと依存するようになり、右脳が潜在的に知っているこの地球上での生命活動の本当の意味が全く見えなくなっているのがよくわかります。
そして、それが近年のようにあまりにも進んでいくと、有名人やメディアや大企業が、CO2削減や原発反対など環境意識の高まりとして声高に唱えてるようになり、実はそのほとんどが自己の収益に繋がるような売名行為でしかないのに、そればかりが常識として蔓延るのでしょう。
本当ははその前に、まず自分の右脳と自然との接点を認識し、自分の地球における立ち位置をしっかりと確認し、さらに自分自身の意識を深めることこそが、本当の環境問題を考えることだと、この本は語っているような気がします。
2013.05.19 Sun

店が休みの日は、山を歩いたあと氷取沢の静かな山の頂上にある休憩所で、読書をするのが最近の楽しみになっています。
村上春樹さんの最新の長編「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」。
一度読み終わったあと、その深さに再び読み直しています。
村上春樹さんの小説としては珍しくストーリーは明確で、主人公以外の主要な登場人物も明るく現代的な性格で、全体としてのトーンも比較的明るいので、一般的なこの小説の評価は軽めだと思われているようです。
しかし、この小説は実は震災後の日本人に向けて村上春樹が初めて書いたものであり、明らかに精神の復興に対するテーゼだと僕は感じました。
カラフルな色彩を持つ友達と違い、空虚で空っぽな無意味な存在としか感じられない自分に起こる理不尽な出来事に、更に心は虚無感に苛まれ、鏡に映ったやせ細った自分の裸身を、
「巨大な地震か、凄まじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように。」いつまでも飽きることなく凝視してしまいます。
そして、
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない。」
この言葉をストーリーの鍵として、主人公多崎つくるの成長過程を通し、物語は進みます。
村上春樹は本の帯に、「ある日ふと思い立って机に向かってこの小説の最初の数行を書き、どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、半年ばかりこの物語を書き続けました。」
と書いていますが、実際はこの小説は複雑で緻密なよく練られたプロットと、色彩の明暗、6本目の指、死のトークンなどのメタファーがストーリに見事にリンクした、重厚で立体感のあるフィネスを持った完璧な小説のように僕には感じました。
小説に対し常に新しい実験的な試みと、その対極にある純粋な物語の深さを追求し続ける村上春樹。
その時代の変化に対応したストーリーと、小説ごとに変化させるリズムやアレンジ。
スマホやゲーム、映像が若者の興味の中心になってしまった現代において、明らかに置きざりにされてしまった文芸書の中に、常に失われない読者を惹きつけるその魅力と、現代的なエンターテイメント性を持ち続けることは、想像を遥かに超えるほど難しいことであり、それを成し遂げることができるのは、唯一、世界で村上春樹ただ一人なのかもしれません。
僕もいつかは自分で納得のできる小説を書くのが夢ですが、今は店の仕事の中に、村上春樹が成し遂げたような奥深さと斬新さ、そして普遍的な魅力を見いだせるようにもう暫くは頑張りたいと、この小説を読んで再度、思いました。
2013.04.19 Fri

去年亡くなった批評家の吉本隆明さんの事実上遺作となった本。
宮沢賢治に特別な思い入れのあった吉本さんが、70年代から時代を追って行った宮沢賢治の講演を、本に編集したものです。
ほとんどの講演を文書におこすにあたり本人が校正、加筆したそうです。
敵しかいないと自分でも言うくらい、権威に対し厳しい批評で有名な吉本さんですが、唯一、批判をまったくしなかったのが宮沢賢治で、この本を読むとその理由が、僕の人生と多くの部分で共鳴するのか、胸に響くように理解できます。
吉本さんは小学生の頃、教室の天井に張られた雨ニモマケズの詩に深く感銘を受け、どうしたら宮沢賢治のような人間になれるか考え続け、その生き方を批評するどころではなく、自分には届かないことに絶望し、最後まで宮沢賢治のことを少しでも理解しようと努力し続けたようです。
僕も同じように子供の頃に読んだ雨ニモマケズの中の、でくのぼうと呼ばれたいという部分がどうしても気になり続けました。
人生とは立派な人になり、お金持ちになるために勉強しなければならない、という学校の先生の教えや世間の常識には何故か全く馴染むことができなかった僕は、「褒められもせず、苦にもされず、でくのぼうと呼ばれるような人になりたい」という宮沢賢治の言葉の方になぜか納得して正しさを感じ、そのせいで以前から吉本さんには共感が持てたのかもしれません。
資本主義的善が常識になり始めた時代に、本質的な善を探求し続けた宮沢賢治は、最終的に法華経に救いを求め、一農民として多くの貧しい農民を救うことに生涯をかけ、自分が芸術家であることに違和感を感じ、春と修羅の背表紙から詩集という言葉を自分で削り取ったというほど、詩人やアーティストと呼ばれることを嫌っていたようです。
特に吉本さんは近年の宮沢賢治をエコロジーやアートの象徴のように扱うマスコミや、それを利用する企業に対しこの本の中で厳しく批判しているのは、賢治の本当の姿勢を見ようとはしない世間に、怒りを感じているからなのでしょう。
銀河鉄道の夜の中にあるように、死後の世界や霊の世界を信じながら、自分や自分自身の言葉を単なる現象と捉えたことも、宮沢賢治が宗教だけでなく科学的にも本質を探求し続けた事を象徴していて、さらに人間関係を単なる横の繋がりではなく宇宙、地球、そして自分という根源的な縦軸で捉えていることも宮沢賢治の特徴であると、吉本さんは分析していて非常に納得できました。
ただ、吉本さんは批評家であったためなのか、非現実的な死後の世界は理解できないようで、そこが宮沢賢治の本質に最後まで近づけなかった要因なのかもしれません。
宮沢賢治の言うほんとうのしあわせとは、宇宙や人間が存在する本質的理由で、肉体に支配されている人間には知ることの出来ない世界であり、死後の世界を含めた全次元の中に答えがあるので仕方がないのかもしれません。
そして、左脳の進化という快楽的欲望と堕落だけを求めることが定められた人間の使命により、宮沢賢治が求める右脳と深くつながっている宇宙の本質を理解することとはまったく反対の方向に、今後も人間は向かい続けるのでしょう。
宮沢賢治や吉本隆明さんがこの世からいなくなった今、お金や世間体、権力や豊かさだけが人生の幸福だと信じきっている現代に、宇宙の本質を伝える人はもはや誰もいないのかもしれません。
2012.10.12 Fri

多くの方が期待していた村上春樹のノーベル文学賞の受賞は、今年はありませんでした。
でも間違いなく近いうちに取ることになるので、僕自身はそれほど残念には思っていません。
大学2年の頃、友達の紹介で「羊をめぐる冒険」を初めて読み、それほどの読書好きでなかった僕が、その後の活字中毒のきっかけになったのが村上春樹との出会いです。
世間でベストセラーと言われる本や、歴史的な名書と言われるような純文学の本でも自分にはあまり訴えてくるものがなかったのに、村上春樹の文章の中に強烈なつながりを感じ、その後、そのつながりの正体を求め村上春樹を深く何度も読みふけりました。
一番強くそのことを感じたのが、確か「中国行きのスロウボート」の中に入っている中編「午後の最後の芝生」。
孤独が好きで社会に上手く溶け込めない大学生が、芝刈りというアルバイトの中にだけ自分自身の生きる意味を見出し、仕事としての芝刈りに没頭することで溶け込めない現実から逃げようとする話です。
主人公が同世代だった僕自身ととても似ていて、また生き方の意味が自分が探していた何か漠然としたものにと近かったので、特別な感情で物語の奥に深く入り込みました。
物語を通しての全体の薄暗いトーンの中で霊の世界と人間界の境目を漂い、その言葉の裏に隠されている心を締め付けるエネルギーに、しばらくは何も手をつけられなくなった記憶があります。
この感覚に一番近かったのが、有名なJ.Dサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」ですが、この話はあくまでも子供のままでいたいという自我と社会性とのすれ違いという枠からはみ出ることは無いので、はるかに「午後の最後の芝生」の方がより深く、魂を素手で直に触れるようなリアル感がありました。
その後の「ねじまきどりのクロニクル」や[スプートニクの恋人」[海辺のカフカ」で、その世界観をさらにリアルに物語化することに成功したように思いましたが、最近の長編はより多様化し、少しその部分のトーンは下がったような気がします。
一般的な評価は売上数と比例するようで、僕のように物語の深さや魂と精神のつながりに興味を持つ人はあまりいないようですが、それ以上に村上春樹の文学にはメタファーの多様さや物語への吸引力などの高度なテクニックや、人を惹きつけるおもしろさを持っているのでしょう。
今までの傾向を見るとノーベル文学賞選考する人は、おそらく人種差別や貧困、文明社会以前の人間性の深さなど社会性や普遍性を最も重要視するようなので、もしかすると村上春樹の本当の凄さをわかっていないのかもしれません。
イギリスのブッカー賞を受賞したカズオイシグロが以前どこかで言っていましたが、村上春樹の描く世界観は誰にも真似ができないと僕も思います。
人間の本質をここまで捉えた作家は過去にも未来にも存在しないのかもしれません。