飽食の時代
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本当の意味で料理やお酒のおいしさとはいったいどういうものなのでしょうか。
現代社会はメディアからほぼ強制的に垂れ流される、視覚的に魅力のある情報ばかりが氾濫するためなのか、料理の良さとは見た目の美しさや奇抜さ、ボリュームばかりを重視し、味については斬新で、刺激が強く、濃厚の味わいのものが優れたものであると常識化されているようです。
しかしそれらの常識は日本が経済的に豊かな時代が続いたために、飽食が当たり前になり、その結果食欲がそれほどないのに無理に食事をするために、栄養の摂取の本当の意味が失われ、本来持っていた正しい食事の嗜好が変わってしまったため起きたことなのかもしれません。

本来、食事を摂るとか飲み物を飲むというのは、肉体の細胞が不足した成分を必要としているために欲することで、おいしさとはすなわち必要なその成分を摂取できた時に感じるようになっているはずです。
喉が渇いているために味のない水がおいしく感じるのであって、長時間の運動や仕事のように筋肉に負荷をかけた時、使ったエネルギーを補うために炭水化物が必要になり、おかずではなく白米だけ食べても味わい深く感じるのです。

そして、ビールがおいしく感じるのは、喉の渇きと共に労働の後の疲労感をアルコールが麻痺させてくれ、醗酵成分の高いエネルギーを疲労した身体が求めているからなのです。
間違ってもビールが冷たいからおいしく感じるのではなく、それはアルコールや成分から由来する味わいではなく、冷たさが味覚的に刺激があるからなのです。
人間はいつの間にか上品な香りや刺激的な風味などに驚きを感じることの方に意味を求めるようになり、本質的な成分の補充ではなく、エンターテイメントのような興味を食事に求めるようになってしまったのです。

それらの行為を長い間繰り返し続けているうちに、食欲や喉の渇きといった生きるために重要なセンサーが働くなり、いつでも手に入る自分の好きなものを間食するのが当然になり、満腹感覚の麻痺から限度を超えて食べすぎたり、飲みすぎたりするようになってしまったのでしょう。
さらに資本主義の求める効率性により、実際には身体に取り込めない科学的分析による人工的な成分ばかりを摂取するようになり、運動不足からくる肥満比率も年々高まり、不必要な成分の摂取過多による次々と生まれる新たな成人病に苦しむ人が増え続き、それにより医療費も右肩上がりで増大しているのです。
そのためにお金を払ってまでジムに通って運動するといった、昔の人からすると無意味な行動をする人が増えたのでしょう。

経済成長と科学的進歩だけが人間の最終目標になり、どれだけ早く仕事をリタイヤし、リゾートで悠々自適に暮らすことが人生の夢になってしまった現代社会。
しかしその結果、何を食べても何を飲んで物足りなく感じる、そんな生活がいつのまにか自分たちの理想社会になっているのです。
本来食事を摂るということは地球に存在する自然を、自分が生きるためにしかたなく頂くということであり、それはすべての生物がお互いの共存共栄のもとにしかたなく成立する契約であったはずです(それが地球上の絶対的ルールであったはずです)。
しかし、人間が左脳を持ちそれを進化させるうちに、いつの間にかすべての種の霊長であるのは当然と考えるようになり、人間の栄養のためだけに、他の生命を殺すのも当然であると思うようになってしまいました。

些末な食事に対しても、昔の日本人は手を合わせ自然に感謝の気持ちを込めて頂きますの唱えたのは、地球や自然が存在する本質的意味を理解していたからなのです(少なくともそうすべきであると感じていたからだと思います)。
そして、感謝の気持ち持つことや、すべてに対して本質的意味を理解するということこそが、シンプルな少量の食べ物をゆっくりと咀嚼を繰り返すことになり、それこそが味わいを深める最大の効果であることも知っていたのです。
|09:57:51|未分類 | comment(0) | trackback(0)
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